【連載 短編小説】シブヤ関係 第三回  「ミルクティーの隙間で密やかに紡ぐ愛の言葉」

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さまざまな人が交差する渋谷では、今日も、人の数だけ興味深いドラマが繰り広げられている。出会い、別れ、喜び、不安に満ちた街にも関わらず、つい足が向かってしまうのはなぜなのだろう?
人と会いたくなる街「渋谷」で繰り広げられる様々な人間関係を、読み切り連載でライター 前田紀至子がお届けいたします。

名曲喫茶ライオン

しぶや百軒店。そう書かれた看板をくぐりぬけ、すれ違った外国人の意味ありげなウインクを受け流し、淫猥な店の数々を見て見ぬ振りしながら歩けばその喫茶店は現れる。

名曲喫茶ライオン
名曲喫茶ライオン

緑色の看板に吸い寄せられるように店の扉を開ければ、わずかに紫色に染まった空気と、店の正面に鎮座する巨大な立体音響装置、そして大量のクラシックレコードが私を迎え入れる。

ボックス席以外は正面を向いている、海外の列車を思わせる造りの店内で私が座るのは、決まって一番後ろのボックス席。ここは喫煙席だから私には少し煙たいのだけれど、程よく閉ざされたこの空間は、他ではなかなか味わうことのできない極上の孤独を味わわせてくれる。

机に置かれたプログラムの冊子に目を通していると、席に着くなり注文したアイスミルクティーがさりげなく運ばれて来た。私はこの店のこういう間合いをとても愛している。

パブロ・カザルスのチェロが鳴り響く中で、ミニチュアサイズのミルクピッチャーにどっぷりと注がれた濃いミルクをコップに流し入れ、極力氷がぶつかる音を立ててしまわぬように細心の注意をはらいながら紅茶とミルクを混ぜ合わせる。とはいっても細く柔らかなストローで氷を完全にコントロールすることは不可能な訳で、冷たく硬い音が思いの外大きく響いてしまった。

しまった。私は横のテーブルに向け、慌てて気まずさや申し訳なさを同居させたような目線を送ったけれど、隣の席の男女はそれに気付く様子もなく、横並びになって、スケッチブックに何か文字を書き込んでいた。

ほっとすると同時に、私は彼らの手元の紙に興味を持った。最初は仕事か何かの資料かしら、と思ったけれど、どうやらそうでは無いらしい。リズミカルで短く、常に二人が交互に文字を書く様子。それから絡み合う視線の温度から推測するに、彼らは恋人同士で、愉しげに筆談をしている。なるほど、確かに会話禁止であるこの店内ではとびきり良いアイディアだと思う。

アカデミックな恋愛を覗き見たい衝動に駆られた私は頬杖をつき、鳴り響く音楽に浸っている振りをしながら薄目で観察を続けた。

その刹那のことだった。黒い髪を真っ直ぐに切り揃えた化粧っ気の無い女性が、男を見つめながら金魚みたいに小さな厚い唇を開いたり閉じたりさせたかと思ったら、彼らの唇と唇が目にも止まらぬ素早さでそっと触れた。まるでアイスティーの氷が溶け合う瞬間のように熱く、そして素っ気なく。

私は見てはいけないものを見てしまったような気がして再び意識を店内の演奏に向けるように努めた。気付けば音楽はエステバン・サンチェスのピアノへと変わっていた。

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ライター:前田紀至子(まえだ・きしこ)
フェリス女学院大学文学部卒。
新潮社nicola専属モデルや光文社JJのライターを務めた後、フリーに。
現在は雑誌やウェブでの記事執筆の傍ら、自身も雑誌やテレビなどに出演も。

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