彼女の匂いがわからない Day2

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ライター・カツセマサヒコ氏による、5日連続公開の恋愛小説。忙しなく生きる人たちに送る、電車一駅ぶんの物語。

いい匂いがした。
ふと見せてくれた笑顔も、嫌いじゃなかった。

それだけで人は、なんとなく相手に好意を抱けるものだと、初めて知った。

異動して2日目、私は昨日と同様に、神主航(カンヌシ・ワタル)という毒吐きレトリバーの金魚の糞となって、社内外を歩き回っていた。

カンヌシさんの言動は、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのかもわからかった。
いつも悪態をつき、人の失敗を笑った。それだけ聞くと正直ロクでもない人間だし、事実、ロクでもないところばかりだった。

でも、平凡な会社の隅にいた異端な存在に惹きつけられた私は、ありとあらゆる質問をカンヌシさんにぶつけるたび、彼がただ人を貶めるだけの人間ではないことに気付きつつあった。

彼との引き継ぎ期間は、残り4日となった。

カツセマサヒコ 小説

「それで、得意先はどうなったんですか?」

宮益坂の途中に佇む、古びた喫茶店。
好みの味だというミートソーススパゲッティを食べながら、彼は自分の過去の失敗談を、楽しそうに話していた。

「そりゃあ、カンカンでしょ。業者から、自分の悪口が書かれたポスターが4,000枚も届くんだぜ? 誰だって怒るよ。おれ、電話口で思わず笑っちゃったもん」

「怖すぎますよ。なんで気づかなかったんですか?」

「いやー、イライラしていてさあ。もらった原稿を入稿しているつもりが、いつの間にか超大作のリリックを打ち込んでた。で、そのまま印刷所行き。一周回って天才かと思ったわ」

「うん、たぶん、天才だと思います」

私が呆れながらそう言うと、彼は満足そうに笑った。
昨日から彼の過激な発言を聞いていて気付いたことがある。彼は、他人のミスや失敗が好きなのではなく、失敗談なら何でも面白いと感じる奇妙な性格の持ち主だった。それは彼の前向きすぎる精神にも紐付いているようで、私には長所にも思えてきていた。

「ミスなく生きる」。カンヌシさんは、そういう発想を一切しない人間だった。

会社が耐えられるであろうギリギリのリスクを背負い、それ以上のリターンを狙って動く。その瞬間に集中力を発揮するため、会社も彼にルーティンワークを一切期待していなかった。そういう意味でまさに彼は、私たちが所属する「新規事業開発室」にふさわしい人材だったと言える。

キーパーソンを見つけてきて、大きな新規事業を最小限の動きで掴む。その嗅覚と行動力だけが彼のビジネスマンとしての武器であることは、話を聞いているうちになんとなくわかったことだった。

「俺の真似しても、きっとうまくいかないから。マコトはマコトのやり方を見つけなよ」

昨日から、何度もそう言われた。そのため、引き継いでくれる情報も、本当に僅かなことだけだった。
あとはただ彼の後を着いて回り、ミートソースがどれだけ美味しいか熱弁されたり、得意先や私が尊敬している営業の先輩の悪口を延々と聞かされたりした。そしてごく稀に、箸休めのように私に質問をしてくれた。

「あのさ、お前が一番、クサいと思うものって、何?」

「え、クサい?」

「うん。クサいと言われてるものって、いろいろあるじゃん。納豆とか、ドリアンとか」

「えっと……柔道着……とか……?」

「柔道着?」

「高校時代、柔道をやってる男子と付き合ってたんですけど、洗う前の柔道着を預かったことがあって、そのニオイに、耐えられなかったです」

「ウケる。そんなくせーの?」

「人にもよると思うんですけど、ちょっとあれは、世界でもなかなか見ないかと……」

「あははは、すげーわ。むしろ会ってみたい。俺でもクサいって思えるかも」

「そうかも。浮気されて絶縁しちゃったんで、万が一再会したら紹介します」

「ぜひぜひ」

人の悪口が混ざると、無償に愉快に笑う人だった。
それを知っていて、元カレを犠牲にしてしまったことに、少しの罪悪感が募った。

「じゃあさ」

「はい」

今度は何かを試すように笑いながら、こちらをじっと見つめてカンヌシさんは言う。

「マコトは、どんな匂いすんの?」

その表情と声が、忘れられなかった。

私は少し緊張したまま、彼に気付かれないように少し息を吸って、彼の香りを吸いこんだ。

三日目へ続く。

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