彼女の匂いがわからない Day3

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ライター・カツセマサヒコ氏による、5日連続公開の恋愛小説。忙しなく生きる人たちに送る、電車一駅ぶんの物語。

「いや、私は全然、いい匂いなんてしないです。今日とかいっぱい汗かいてるし……」

昨日、嗅覚がないというカンヌシさんの質問に、何故か少し照れながらそう返した。
彼はその答えに不満そうな顔をして、具体的にどんな匂いなのかを尋ね、さらにその後、“汗臭い”とはどういう匂いなのかと私を問い詰めた。

嗅覚がない。そのことを普段から気にしている様子は微塵も感じさせなかったが、いざ匂いの話をすると、彼は異常なまでの好奇心を示した。

まるで嗅覚以外のすべてを使って、「匂い」というものを捉えようとしているようだった。

それは、空に浮く雲を手で掴もうとしているようにも思えた。

彼といられる時間は、残り3日となった。

カツセマサヒコ 小説

「今日、クライアント直行で。朝10時に桜木町集合よろしく」

カンヌシさんから理解し難いLINEが届いたのは、今朝7時半のことだった。
まだ両目も開いていない状態で着信音に気付いた私は、彼から初めて送られてきたLINEを見て、苛立ちを募らせた。

「さすがに連絡のタイミングが遅すぎません?」
なんとか指を動かして返事をする。得意先同行の話なんて、一切聞いていなかった。

「じゃ、ひとりで行くわ。お前、先に会社で待ってて」
即レスで届いた返事を見て、また腹が立つ。付き合って2年を越えて急に倦怠期が来た彼氏みたいな対応は、何なのだろうか。 

このまま引き下がるのも厭だった私は「行きます」とだけ返事をして、すぐにベッドを飛び出した。桜木町なら、渋谷から東横線で横浜まで出ればすぐだ。

「ゴメン」

約束の時間ギリギリで桜木町の改札に滑り込むと、カンヌシさんはいつもの姿から便所サンダルをデッキシューズに履き替えた格好で、まず私に謝った。

「本当ですよ。どんだけワガママ! 先輩とはいえ、当日呼び出しとかありえないでしょ」

先輩に向かう口ではないと思いつつ、本音をそのままぶつけた。クライアントの詳細もわからないから、わざわざ会社概要まで持ってオンタイムに間に合わせたのである。我ながら後輩として優秀すぎる。

「いや、それもそうなんだけど」

「は? まだ何かあるんですか?」

バツが悪そうな顔をして彼は言う。

「今日、クライアントじゃないんだ」

「え?」

不信感がよぎる。

「デート」

「……はい?」

「デートしたくて、呼んだ」

「……どゆこと?」

少し潮風の混じった匂いが、目の前を通り過ぎた。
突如子犬のように小さな声になったボサボサ頭は、目線を足元に落としながら、この場所に呼んだ理由をそう告げた。

「『デートしてください』なんてストレートに誘っても、来ないでしょ? お前」

24年の人生において最も強引な誘い方を受けて、私は大いに呆れていた。

どんっだけシャイだよ。行くよ、行くに決まってるだろ。少し気になってることくらい2日で気付けよ。

またしても言葉を飲み込んで、ニヤつく気持ちを抑えながら、情けない男を責める。

「シゴト。シゴトどうするんですか。平日昼間ですよ? 引き継ぎ5日でそのうち1日デートしたなんて言ったら、私これからどうしたらいいんですか」

「いや、だから、俺らの仕事は引き継げる感じじゃないから」

今朝まで散々上から目線だったくせに、急にしどろもどろになる変人。
私は暫くこの男から主導権を奪うことを決めた。

正確な話を聞くと、カンヌシさんは独立後、みなとみらいのPRに携わるらしかった。デートスポットとしても有名なみなとみらいを知るためには、一緒に歩いてくれる人がほしかったらしく、それが彼にとっての「デート」だったというわけだ。

童貞かとツッコみたくなるほど純粋な先輩に笑いすら込み上げるが、一応仕事も兼ねていることがわかるから、学べることもありそうだし、会社にも言い訳がつくと思って私はこの誘いに乗った。
正確には、仕事半分とはいえ、この人と一緒に「デート」という体でみなとみらいを歩けることに、心躍っていた。

そして、運命や奇跡を信じたくなる瞬間は、その日の夕刻に訪れた。

「待って」

一日みなとみらいを散策し、大型旅客船が停泊する大さん橋のデッキに着いたころだ。
陽も沈みかけ、心地よい潮風が吹くデッキで、後ろを歩いていたカンヌシさんに引き止められた。

振り向くと、異物を誤って飲み込んだような顔をしてこちらを見ている。

「どうしたんですか?」

いつもと様子が違う彼に少し動揺しつつ、呼び止めた理由を尋ねる。

「匂い、した」

「え?」

戸惑いと、不安と、驚きが混ざった声だった。
その場に立ちつくし、今言われた言葉の意味を理解しようと必死になる。

「今、匂いがした。一瞬だけど、風が吹いたときに、すげーした」

「え、匂いって、わからないんじゃ」

「でも、した。今、絶対にした。優しい匂い」

鼓動が速くなり、景色がぼうっとする。強い風が吹いたなら、潮風の匂いかもしれない。
でも、彼は私の真後ろにいて、もしもその風に乗った匂いなのだとしたら、それは、もしかすると。

足を止めた私のもとに、カンヌシさんが歩み寄る。
きかないはずの鼻をきかせながら、匂いの根源を探すように、かつてないほど近づく。

2メートル。1メートル。50センチ。

「まだ、する。わかる。この匂い」

向かい合うと、彼は私の後頭部に手を回して、頭に鼻をくっつけた。0センチ。

「ほら、ここ」

その言動はたぶん、口説いているわけでも、下心があるわけでもなかった。

彼の嗅覚は一瞬機能して、私の匂いに反応した。
私にとってそれは、奇跡のように感じられた。
どんな言葉を使っても表せられなかった自分の匂いに、カンヌシさんはこの瞬間、直接触れることができたのだ。

1分もしないで、徐々に嗅覚は薄れていくようだった。
彼はそのまま私を抱きしめると、「消えてく」と小さく言った。

私はどんな言葉をかけるべきかわからず、その肩を優しく叩くことしかできなかった。

四日目へ続く。

※記事の内容は公開時点の情報です。価格等の情報については変更している可能性がありますのでご了承ください。
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