ライター・カツセマサヒコ氏による、5日連続公開の恋愛小説。忙しなく生きる人たちに送る、電車一駅ぶんの物語。
どうしたらいいか、わからなかった。もう、疑うことなく好きだった。
昨日、私たちは大さん橋のデッキ上で抱き合ったまま、その場から動けなくなった。どのくらいそうしていたか、わからない。いつの間にか日は落ちて、遠くに見える観覧車の光だけがやたらとうるさく感じた。
不思議な時間だった。洋服越しとはいえ、「ごめん」と言いながら彼が両腕を下ろすその瞬間まで、まるでひとつであることが当たり前だったかのように、私たちは体を密着させていた。
離れた瞬間、ふたりの前に生まれたばかりの空間を冷たい潮風が横切った。全てをさらっていくかのようだった。あわよくば、このまま連れ去ってほしいとさえ思った。これまで経験したことのない、本当に美しい時間がそこにはあった。
その後は、ほとんど会話も交わさずに駅まで歩いて、ぼんやりと解散した。手も繋がなければ、別れのキスもなかった。でも、カンヌシさんの温かな感触だけが、一晩中残っているように感じた。
「また明日」別れ際のその言葉が頭の中に強く残っている。また明日。また明日。早く明日にならないかな。
期待に胸が膨らんだ。でも、その期待は、大きく大きく裏切られることになった。
カンヌシさんがいなくなるまで、あと2日を切った。
「なんか、冷たくないですか?」
資料室でふたりきりになるなり、私が彼にそう尋ねたのは、目の前の男が昨日のことなど何もなかった顔をして、黙々と作業に没頭していたからだ。
「は? 何が?」そしてこの男は、本当に何も気付いていない様子で、私にそう返した。
職場なのだから、それが自然なことぐらいわかっている。でも、「ああいうこと」があった翌日の男女って、上司や同僚にはわからないところでアイコンタクトをするとか、こっそりLINEでイチャつくとか、ふたりにしか分からないキーワードをしれっと会議中に織り交ぜるとか、そういう“ロマンチックの延長戦”みたいなことを互いに仕掛けては、ニヤニヤするものではないだろうか。
いささかドライすぎる彼に痺れを切らした私は、「探しものがあるんですけど」と声をかけ、強引に社内にある資料室に誘い出した。そして、部屋に入るなり、尋ねたのである。
「だから、今日、なんか、冷たくないですか?」
「いや、普通だろ。なんだよそれ」二人きりになれば声も態度もやわらかくなるものかと思ったら、むしろ鋭さは増した。そして呆れた顔をしながら彼は返す。
「もしかして、昨日の話?」
「はい」
「つまり、ハグされたぐらいで、恋人感覚になってるってこと?」
「え」
露骨に顔を歪ませた。そして、何か歯の間に挟まったものを吐き捨てるように言った。
「アホ。どんな恋愛脳してんだよ」
それが、彼の本音のようだった。
*
一切の悪気を感じさせなかった。自分は何も悪くないと、信じてやまない様子だった。それ故、こちらが強く抗議することもできなかった。
「でも、匂いとか、あんなに嗅いでいたから」
「単なる偶然。嗅覚がいきなり治ったから、しちゃっただけ。たまに治るんだって。数年に一回ぐらいだけど。それがたまたま、あのときだっただけ」
じゃあ、なんであんなに長く、抱きしめていたの?なんで、改札で待ち合わせたとき、あんなに照れくさそうに「デートだ」って言ったの?
聞きたいことはいくつもあった。だけど言葉にならなかった。彼が照れているわけでも、虚勢を張っているわけでもないことは、目を見てなんとなくわかってしまった。舞い上がっていたのは私だけで、カンヌシさんにとってあの出来事は、奇跡でも、運命でもなく、単なる偶然。そして、あんなことがあっても、彼にとって私はあくまでも仕事の引き継ぎ相手にすぎないようだった。
その事実だけで、もう気持ちを落ち込ませるには十分すぎた。
*
「すみませんでした」
何に謝ったのか、自分でもわからない。
勝手に舞い上がってすみません。仕事中にプライベートな話をしてすみません。たまたま匂いをしたのが私ですみません。こんな引き継ぎ相手ですみません。
涙腺が崩壊するギリギリのところで言葉を吐き出すと、振り返ることなく部屋を出た。引き留められたって、もう絶対に振り向きたくなかった。そしてもちろん、引き留められもしなかった。
6階から1階まで階段を下って、道玄坂の喧騒に出る。17時にもなれば日は傾き、夕暮れが道行く人の表情を隠した。ホテル街の駐車場の影に身を潜めると、膝を折るなり一気に泣いた。
バカ。本当にバカ。
バカは私だとわかりながら、それでもあの運命を、奇跡を、「偶然だ」と言われたことが悲しくて、許せなかった。
こんな私の匂いを「優しい」と言ってくれる人なんて、貴方だけだと思ったのに。
そんな貴方の匂いをこれほど愛しているのも、私だけだと思うのに。
冷たいビル風が吹いた。その風にさえ、彼の匂いはこれっぽっちも残っていなかった。