彼女の匂いがわからない Day5                           

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ライター・カツセマサヒコ氏による、5日連続公開の恋愛小説。忙しなく生きる人たちに送る、電車一駅ぶんの物語。

昨日は定時で帰るなり、シャワーを浴びながらひたすら泣いた。

泣きながら、カンヌシさんのどこが良かったのかを考えていた。彼がどれだけ最低で、女心のわからない人間かなんて、冷静に見ればすぐわかることだった。ほかを探せばいくらだって、彼よりもいい男がいることも知っていた。

でも、彼の笑顔と匂いに魅せられた私は、冷静に見ることなんて到底できやしなかった。一度でいいから、彼に恋愛感情を抱かせたかった。その後悔が、一番大きく感じた。

いずれにしたって、今日がカンヌシさんの最終出勤日だった。もう引き継ぐものはほとんどないし、形式的に書類を受け取ってしまえば、もう二度と会うこともない。

昨日の今日で、今さら振り向いてもらおうとも思えなかった。カンヌシさんには二度と翻弄されないように生きようと決めた。

私たちの、最後の一日が始まった。

カツセマサヒコ 小説

「おはようございます」

部署の誰とも、目を合わせたくなかった。昨夜はアイシングまでしながら寝たのに、目の腫れがまったく引いていなかった。最終日すら格好がつかなかったのもカンヌシさんのせいだと思い、機嫌が悪いことを全面に押し出すようにしながら、席に着いた。

「ひでぇ顔」誰のせいでこんなに目を腫らしたと思ってんの……? 早速怒りが込み上げるが、この4日間ですっかり聞きなれた毒吐きレトリバーの皮肉を、できるだけ自然にスルーした。

「初日はあんなにヘラヘラ笑ってたのにな」「誰のせいですかね」殴りたい。結局、5日連続でその感情を抱いた。

オフィスにはまだ、私たち以外誰もいなかった。カンヌシさんも、昨日までフルに働いていたせいか、今頃になって身辺整理に追われているようだった。

「マコトさ」余計な相槌を打つのも控える。極力会話は発生させたくなかった。「聞いてんの?」「……聞いてます」「だったら返事しろよ」「イヤです」「なんで」「怒ってるから」「何に怒ってんの?」「全部です」「全部」「カンヌシさんの、全てに怒ってます」「はいはい」ボサボサ頭の毒吐きレトリバーはギシギシと椅子を揺らしながら席を立つと、私の頭を二度軽く叩きながら「タバコ」とだけ言った。

「勝手に行ってください」「ああ? 今日で最後なんだから、付き合えよ」「そんな最後にしたのは、誰のせいですか」「可愛くねー」「可愛がられるつもりが、もうないです」パタパタと便所サンダルを引き摺る音がする。その音だけで笑顔や匂いが蘇りそうで、慌てて耳を塞いだ。

一昨日はあんなに強く抱きしめてくれたくせに。昨日はあんなに強く拒絶したくせに。今日は、なんだか、どの日よりも優しく親しげに思えるのは、何故なんだよ。

最終日は、あっという間だった。カンヌシさんがデスクを立って皆に頭を下げたのは、18時を越えて、部署内が見送りムードになったときだった。

「じゃあ、帰ります。長い間、お世話になりました」

チームワークの欠片もない組織だったし、送別会すらやらないドライなチームだったけど、きちんとこの場だけは、全員が集まっていた。「変人」というあだ名を持っていても、カンヌシさんはどこか憎まれすぎず、とくに同僚や後輩たちからはそれなりに慕われた人であることが再認識できた。女の扱いはクズでも、仕事ができる人は社会で生き残っていける。社会人2年目にして、重要な気付きを得られたように思った。

「後は、マコトさんが全部やってくれるんで」

引き継いだものはほとんどないくせに、いい加減なことを言う。私はヘラヘラと笑いながら、その言葉を受け流した。

これで、終わり。カンヌシさんはフリーランスとしてやっていくらしいから、仕事の関係をウチの会社と続けていくこともあるかもしれないけれど、私たちが再会することは、よほどのことがない限りありえなさそうだった。

「お疲れ様でした」

最後の最後くらい、きちんと目を合わせて言おう。そう思って前を向くと、彼は出会った初日に見せたあの笑顔で「またな」と言った。

パタパタパタと、便所サンダルが階段を下りる音がする。

もう一生、あの人と会えないかもしれない。そう考えるとあの匂いをもう一度嗅ぎたくなるし、あと一回だけでも、抱きしめられたかったと未練がましくなる。

でもきっと、これでよいのだろう。もうあの人にとって私は元同僚に過ぎないし、私も、たった1日の奇跡にいつまでもすがっていられるほど、ヒマでもなかった。

私は私で、いつかカンヌシさんが後悔するような、素晴らしい恋と仕事をすればいいのだ。

映画のようにドラマチックな始まり方でもなければ、死別するような劇的な終わり方でもなかったからこそ、私は私の幸せを掴むために生きられるのだから。

私はあの人の匂いを忘れないし、きっとあの人も、私の匂いを忘れないはずだ。だったら、なおさら後悔させてやる。私を選ばなかったことを。

見えなくなった背中を心で追いながら、私は自分を奮い立たせた。

「奇跡とか運命とか、馬鹿馬鹿しい」

カンヌシさんからLINEが届いたのは、その日の夜、スクランブル交差点を渡りきった直後だった。

もう、連絡も一切来ないものかと思っていた。それだけに、ただの一文、それだけが書かれていたのを見たときは、ただただ目を丸くした。

「ええ、知ってます」この期に及んで何を言い出すのかと思い、定期券を鞄から取り出しながら、できるだけ突き放すように返す。

「単なる偶然に、みんな騒ぎすぎなんだよ」「はいはい」

「でも」「でも?」「一度起きた偶然は、二度起きてもおかしくないとは思う」「……?」「それが何年後かはわからんけど」「はい」「つまり」「つまり?」

「……やっぱりもう一度嗅覚が戻ったときも、マコトの匂いが嗅ぎたいかも」

地下鉄のドアが閉まる。都会の熱い風が横切った。

今度会ったときこそ、絶対に殴ってやろう。少しニヤつきながら、クズ男のLINEをじっと見つめて、フリックする。

「今更遅いです。次に会うときは、元カレの柔道着の匂いかもしれません」

スマートフォンを鞄に放り込む。次の電車のアナウンスを聞くと、私は深く息を吸って、ホームの匂いを吸いこんだ。

「彼女の匂いがわからない」 おわり

※記事の内容は公開時点の情報です。価格等の情報については変更している可能性がありますのでご了承ください。
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