わたしの渋谷 vol.01 根岸達朗「美が交差する街」

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

渋谷に関わりを持つ人々が、独自の視点で渋谷を切り取るエッセイ。第一回目はライターの根岸達朗さん。「美が交差するこの街では、いつも行き先の『選択』に迷うのだ」。

渋谷を歩いていた。

元気がないなあというわけでもないし、かといって特に明るい気持ちでもない日に、僕はただ渋谷を歩いて「ぐっとくる」を探していた。使いこなせないカメラを片手に街を歩き、いろんなことを考えながら、気持ちが動いた瞬間にだけシャッターを切っていた。

それは、何気なく入った古着屋やレコード屋で、「何かいいものがあるかなあ」などと、偶然の出会いを求めていた、若い頃のあの感じにも少しだけ似ていた。

相変わらず街には所在のなさを感じたけれど、そもそもこの街に所在を求めていない自分に気付いたら、今は案外ちょうどいい距離感で付き合えているような気もした。

6年前に子供が生まれてから、僕はずっと気持ちを注いできた音楽とはほとんど距離を置いて「生活の人」になった。朝昼晩の食事をつくり、家事・育児をして、合間に細々とライター仕事をする日々。タワーレコードやHMVで何時間も試聴したり、宇田川町のディスクユニオンで中古CDを漁っていたあの頃が遠い過去の思い出になった。

中学の同級生たちと10年以上バンド活動をしていたが、4年ほど前にそれもやめた。スタジオ練習の後やライブの合間にコンビニで酒を買い、ガードレールに腰掛けてみんなで野外飲酒をするようなこともなくなった。あの頃、よく出ていた渋谷のライブハウスはもう潰れてなくなっていたけれど、不思議と寂しい気持ちはなかった。変わらないものなんて、ないのだと思う。

この何年かで、人生のいろんなことが変わった。夫婦で話し合い、それぞれの「愛する自由」を尊重するために離婚を「選択」したのも大きな変化のひとつだった。結婚という「契約」に縛られることなく、自由に人を愛し、みんなで子供を育てるという価値観の「選択」。それは、狩猟採集社会の拡大家族的な人間関係のあり方に「ぐっときた」僕の美意識からくる「選択」でもあった。

楽器を担いで渋谷の街を歩いていたあの頃の自分は、まだ何も「選択」していなかった。就職をしなかったこととか、親の自己破産を機に実家を飛び出したこととか、うつ病で会社をやめたこととか、場面の切り替わりはいくつかあったけれど、どれも自分の美意識に向き合った、意志のある「選択」ではなかったように思う。

でも、離婚は違った。それは自分が「よく生きる」ために、意志を持って「選択」できたことだった。どのように人間関係を築いていくことが「美しいと思うのか」。その問いに自分なりの答えを出せたものでもあったのかもしれない。

パートナーとの持続可能な関係性を美の基準で「選択」する。自分の中の「美」とともに歩むことが「よく生きる」ことであると、いつしか僕は考えるようになっていた。

独特の死生観と美学を持っていたとされるアメリカ南西部の先住民族「ナヴァホ」は、「美」についてつぎのような「賛歌」を歌ったという。

美がまえにある
美がうしろにある
美が上を舞う
美が下を舞う
私はそれにかこまれている
私はそれにひたされている
若い日の私はそれを知る
そして老いた日に
しずかに私は歩くだろう
このうつくしい道のゆくまま

ーー『気流の鳴る音』(著・真木悠介/筑摩書房)より

インディアンの思想を自分の美意識の物差しにするなんて、おこがましいことかもしれない。けれど、この詩で語られているように、あらゆる美に囲まれて人間が存在しているのだとしたら、身の回りにあるたくさんの美に気付いて、それを自分の糧にしながら生きてみたいとも思ったのである。

人生は自分のなかの「美」を探し続ける旅のようなものかもしれない。自分がそれを「美」とすることが自分の「正しさ」でもあるとしたら、僕はこれからの人生でどれほどの「美」に出会えるのだろう。

小雨がしとしと降っていた。人混みを避けて路地裏を歩いていた僕は、ガード下で雨宿りをしながら、これからどこに向かおうかと考えていた。美が交差するこの街では、いつも行き先の「選択」に迷うのだ。

根岸達朗

ライター。バンド活動をしながら、20代の多くを下北沢周辺の仲間たちと過ごす。編集プロダクション勤務を経て、2012年に独立。現在はウェブ・雑誌、フリーペーパー『欲望と妄想』など、さまざまなメディアでインタビュー、エッセイを執筆している。

Twitter:onceagain74
Facebook:tatsuro.negishi

※記事の内容は公開時点の情報です。価格等の情報については変更している可能性がありますのでご了承ください。
  • このエントリーをはてなブックマークに追加