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彼女の匂いがわからない Day1

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2017/9/11更新

ライター・カツセマサヒコ氏による、5日連続公開の恋愛小説。忙しなく生きる人たちに送る、電車一駅ぶんの物語。

客観的に見てしまえば、大して感動する話でもない。
私たちのそれは、映画のようにドラマチックな始まり方でもなければ、死別するような劇的な終わり方でもなかった。

彼は会社を自己都合退職することになり、私はその後継として、彼の仕事を引き継ぐことになった。言ってしまえば、それだけの関係である。

与えられた引き継ぎ期間は5日。
この物語は、その120時間のうちに起きた、私たちの全てだ。

周りからしてみたら、ただの偶然だと冷やかされて終わるだろう。
でもあのとき、私たちは紛れもなく運命や奇跡と呼ばれる何かの中にいて、限られた時間の中で、あの人に恋をしていた。

カツセマサヒコ 小説

(一日目)

「だから、引き継ぐことなんて、何もないんだって」

道玄坂にある古くも新しくもないオフィスの一角で、彼はパソコンの画面から目線を上げることなく、面倒くさそうにボヤいた。

「カンヌシさん」と呼ばれるその人は、独立か転職か何かの理由で、一週間後には退職することが決まっていた。その後継として異動してきたのが私で、彼の仕事を引き継ぐために、朝からずっと彼の横で、その仕事ぶりを見ていたのだった。

「この仕事は、資料とかで残せるもんじゃないし、『はいこれ』と渡せるものじゃないんだよ」

俗人的な仕事をしてきたことを、何故か誇らしげにしているようだった。
だったら会社組織なんか辞めちゃえば? と言いたくなったが、きっとその理由で辞めるのだろう。納得はいくものの、引き継がれたこっちの立場がない。「そう言われましても……」と苦笑いを振り巻いてみる。

神主航(カンヌシ・ワタル)。新規事業開発室と呼ばれる会社でも変わり者ばかりが集められたその部署で、彼は「変人」の名をほしいままにした男だった。



「今日から異動してきた、麻琴(マコト)です。よろしくお願いします」

そう自己紹介をしたのが、3時間前のことだった。

「ふーん、下の名前で自己紹介するって、社会人としてどーなの?」

そう毒づかれたのが、2時間59分前のこと。

これが、私たちの最初に交わした言葉だった。

私が「麻琴」は苗字であり、名前は「友里(ユリ)」であることを愛想笑いしながら説明すると、彼は「さっさと結婚して改名できるといいね。あと、若いからってヘラヘラ笑えば済むとも思わないほうがいい」と言い、セクハラ・パワハラのセ・パ両リーグをあっさりと制覇してきたのだった。


殴りたい。


私が彼に抱いた最初の感情はそれで、この後もそう思うシーンは度々あった。
「カンヌシさん」と呼ばれるその人は、人に毒を吐くことだけを楽しみに生きるような、実にムカつく男だった。



皺があちこち見える白のワイシャツに、ダメージ加工のスキニーデニムと便所サンダル。
しばらく髪を切っていないのだろうか、ボサボサの重そうな前髪からわずかに覗く瞳は、いつも眠そうだった。
どちらかと言うと、レトリバー系の犬顔に、180センチはゆうに超えそうな身長。でも、猫背で実態はよくわからない。

ビジュアルだけ見れば雰囲気系イケメンなカンヌシさんは、今時珍しいヘビースモーカーで、30分に一度は席を立つと、便所サンダルをパタパタ鳴らしながらフロアを出て屋上へ向かった。
私はそれが業務のために移動しているのか、ただの喫煙目的なのかわからず、金魚の糞のごとく彼の後ろを着いて回るしかなかった。


毒吐きレトリバーと、金魚の糞。
想像する限り、もっともやりづらい引き継ぎ相手だった。



「マコトさあ」
屋上に出ると、タバコを咥えながらボサボサ頭が話しかけてくる。
また何か嫌味を言われるのだろうか。身構えていたところで、道玄坂に突然、強い風が吹いた。

彼の髪が乱れる。その風がこちらに届き、今まで嗅いだことのない、香水と、柔軟剤と、シャンプーと、メンソールのタバコが混ざった、独特の匂いが通った。


「わ、いい匂い」


思わず、口に出ていた。別に清潔な香りというわけじゃない。でも、どこか柔らかくて、温かい、居心地の良い香りがした。


「よく言われませんか。いい匂いだって」


彼の言葉を遮って尋ねてみる。
風は止まない。少し口調を強めながら、柵にもたれるその人は返事をする。

「言われたことねーわ。ヤニまみれっしょ」

「いや、そんな感じじゃ、なかったです」

「ならよかった」

目線を外しながら笑った。たったそれだけの挙動に、胸の奥で何かが落ちる音がした。


「おれ、嗅覚がないんだ。物心ついたときから、匂いとか、ほとんど嗅いだことない」


何気なく言われたその一言から、私たちの運命は、ゆっくりと動き出したように感じた。
あのときはそんなこと微塵も思わなかったけど、今振り返れば、あの言葉こそ、私たちを強く繋ぎとめる、魔法の言葉だったのだと思う。

道玄坂のオフィスの屋上で、私たちの何かが始まった気がした。

二日目へ続く。




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