さまざまな人が交差する渋谷では、今日も、人の数だけ興味深いドラマが繰り広げられている。出会い、別れ、喜び、不安に満ちた街にも関わらず、つい足が向かってしまうのはなぜなのだろう?
人と会いたくなる街「渋谷」で繰り広げられる様々な人間関係を、読み切り連載でライター 前田紀至子がお届けいたします。
恋をしているとカフェに足が向くのはどうしてなんだろう。居心地の良いカフェで過ごす時間と恋をしている時の高揚感はよく似ているから?そこに行けば自分と同じように恋をしているであろう人たちがたくさん居るから?そう、きっと。カフェではいつも誰かが恋をしている。
「後悔しても遅いんだ」
私の隣の席に座った男は、テーブルに肘をつくなり皮肉ったような口調で話し始めた。
突然の台詞がかった言葉に好奇心をくすぐられた私は、口の中で泳がせていたスコーンを思わず一気に飲み込む。スコーンの水分の少なさも相まって、ごくり、という音が隣の席まで響き渡ったような気がした。
渋谷界隈で昼食をとり損ねたまま中途半端な時間に突入した時、私はよくスペイン坂の途中にあるこのカフェでおやつを兼ねてスコーンを食べる。少し変わった店名が示す通り、ここでは幅広い年齢層のお客さんが思い思いに過ごしている。私はこの空間で誰にとっても部外者になる。その束の間が好きなのだ。
私は澄ました表情を微塵も変えぬよう努めながらも男の真正面に座っているやけに姿勢の良い女の子にこっそりと視線を遣った。潔いポニーテールと首元が詰まったダークグレイのトップスがよく似合う女の子は、そのトップスとまるで同じの鉛のような瞳で宙を眺めていた。私と同い年、或いはもう少しだけ歳下といったところだろうか。勝手気儘に推測を進めていた瞬間、その女の子はストローをついばむかのように唇を尖らせて木いちごのソーダを飲みながら、小さな、それでいてきっぱりとした口調で言い切った。
「そうよ、遅いの。ピアスは落としてしまったら大抵見つからないもの」
男は丸みを帯びたごくシンプルなカップを口に充てながら、わずかに首を傾げる。
「ピアス?相変わらず君の例え話って全然分からない」
「ねぇ、あなたのあの時の言い訳よりはずっとマシよ」
この時すでに私は人を食った態度のこの男と、可愛らしくも掴みどころが無さそうな女の子の会話にすっかり気を取られていたのだろう。いつの間にかテーブルにこぼしてしまっていたクロテッドクリームの存在に気付いて慌てて拭き取りつつ、何でもないような素振りでアップルシナモンティーをすする。
「じゃあ、どうして今日来たのさ?」
男は急に甘えた犬のような声を出した。
「それは、凄く…暇だったから。それに、明日の朝ごはん用のベーグルも買いたかったしね」
「ねぇ、ベーグルならさ、僕が毎日買ってあげるから。これを機に僕らもう一度やり直さない?」
そうだ、そういえば私もベーグルを買って帰ろうと思っていたんだった。このお店のむぎゅっと詰まったベーグルを。
明日は日曜日。彼らは二人でベーグルをブランチにするのだろうか。あるいは結局彼女一人、自宅でベーグルを齧っているかもしれない。
だけどやっぱりきっと。カフェではいつも誰かが恋をしている。
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ライター 前田紀至子(まえだ・きしこ)
フェリス女学院大学文学部卒。
新潮社nicola専属モデルや光文社JJのライターを務めた後、フリーに。
現在は雑誌やウェブでの記事執筆の傍ら、自身も雑誌やテレビなどに出演も。
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