アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)。オーストリア帝国の支配下にあった南モラヴィア地方(現、チェコ共和国東部)に生まれ、アール・ヌーヴォーの旗手として19世紀末から20世紀にかけて活躍した画家です。
筆者が高校生の頃、彼の作品を初めて見たとき、既視感を覚えました。「どこで、どのような」と聞かれても明確には答えることができない、でも心の片隅にある古びた琴線にふれたのです。
しかし年を重ねるごとに、だんだんとその既視感の正体がわかってきました。どうやら私たちの周りには、ミュシャの作風から天啓を得た企業広告やメディア、個人のファンアートまで存在していたのです。大女優サラ・ベルナール主演の劇場ポスターで脚光を浴びてから100年が過ぎた現代の、この東の国で、ミュシャの作風はもはやデザインの形式として息づいていました。
そして再びミュシャの作品と対峙したとき。まるで夢の中で見た憧れの乙女にやっと再会できたかのように、心が弾み、画面の中の彼女に恋してしまうのでした。
■後世への影響にフォーカスした、かつてない取り組み
7月13日(土)より9月29日(日)まで、東京・渋谷Bunkamura ザ・ミュージアムで開催されている「みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ──線の魔術」。この展覧会では、タイトルの通り、ミュシャのほかに、海外のグラフィック・アーティストや日本のマンガ家など、彼から影響を受けた後世の人々の作品を鑑賞できます。
面白いことに本展は、存分にミュシャ自身の作品も堪能できるのです。
「かつてない取り組み」と話したミュシャ財団キュレーターの佐藤智子さん。ギャラリートークでは次のように話されました。
「今年はミュシャ没後80周年という節目の年。これまで皆さんのイメージにあったミュシャとは、また彼の様式とは一体どのようなものかを知ろうというのが今回の展覧会の目的です。
ミュシャにとっての芸術とは“人々とのコミュニケーション”です。さまざまな構図を駆使して作品をつくりあげ、鑑賞者が見て心地よく感じる“より美しき善き世界”を築き、人々とコミュニケーションを共有すること。それが彼の芸術の本質なのです」(佐藤智子さん)
ミュシャの様式を探るためには、彼が影響を受けたものを知る必要があります。本展はミュシャの蔵書や工芸品などのコレクションから始まり、挿絵画家としてのキャリアやポスター作家としての大成、そして後世に与えたインパクトまで追い求めます。
1960年代、ミュシャの様式は反戦・反体制運動で高まったカウンター・カルチャーに影響を与えました。そしてイギリスのロック・ミュージックのレコード、CDジャケットやライブ・ポスター、海を渡ってアメリカン・コミック、日本のマンガにまで波及していったのです。
しかし後世の作品に見られる、ミュシャの様式とはどのようなものなのでしょうか。
■ミュシャらしさってなんだろう。画面に散らばるミュシャ様式
ミュシャといえば、ポスターの中央に据えられた、メッセージの伝達者である魅力的な女性。
まるで生命が込められたように動的になびく髪の毛や、周囲の植物や宝石などのアール・ヌーヴォー調の装飾は、彼女の美を際立たせ、鑑賞者の視線を集めます。また女性が身に着けているスラブ風の装飾品や衣装に、ミュシャのチェコ人としてのアイデンティティーを表現しています。
このような特徴の中でも注目すべきは、1896年頃に確立した女性の背後にある「円環」です。女性の表情を強調させる円環は、さらに2年後には「Q型方式」の構図へと進化し、やがて幅広い世代のグラフィック・アーティストに大きな影響を与えました。
《舞踏―連作<四芸術>より》にあるように、円環から突き出た女性の脚と組み合わされることでアルファベットの「Q」に似た構図になります。この様式は実に安定的で、人々の記憶に残りやすく、またさまざまなヴァリエ―ションで図案化が可能なため、多くのグラフィック・アーティストに影響を及ぼしました。
さらにミュシャは、自身のデザイン論を確立させていきます。元々心理学に関心があったためか、知覚心理学的要素を組み込み、人が見ていて心地よいと感じる、スパイラル(うずまき)、波形、円、短く(小さく)連続するモチーフを画面の中に取り入れていきます。
また彼は広告的な直接の表現は避けました。パリからモンテカルロまで16時間、豪華列車の旅を提案する鉄道会社のポスター《モナコ・モンテカルロ》では、女性は旅そのものへの期待感を表情に浮かべています。本来描くべき、モナコやモンテカルロの美しい景色は、はるか後方にあるだけ。女性の表情や周囲の花々など前面に入れ、楽しげな印象を描くことで、商品・サービスを受けた際の人々の感動体験を間接的に伝えたのです。
これらの様式、もしくはデザイン論は「芸術は人々とのコミュニケーション」を本質としたミュシャが、芸術のための芸術ではなく、庶民がわかりやすく美しいと感じる芸術を目指したため、確立していったのです。
■美の正体を見たり!東の国で引き継がれるミュシャの美感
「ミュシャらしさ」を浮き彫りにさせていくと、第4章と5章の展示作品に含まれたミュシャへのオマージュを見つけることができます。
日本では、明治時代に与謝野晶子の「みだれ髪」など各文芸誌の表紙を飾ったミュシャ様式は、一旦途絶え……もしくは無意識的にデザイン形式として引き継がれていき、1970年代に少女マンガで再燃します。
マンガ家・波津彬子は次のようにコメントを残しました。
「少女マンガ家たちは、みな綺麗な絵を描きたいと思うわけですが、じゃあ具体的にはどうしたら自分のイメージを表現できるのかしらと思案する。そんな時にミュシャを見ると、ああ、そうなのか、みたいなことになるわけです。〔…〕彼が描く女性のイメージとか装飾的な画面とか、私たちの美の観念、綺麗という観念にぴったりあっているんですよね」(図録P.199より抜粋)
私たちはどこでいつ見つけたのかわからない、でも心のどこかで追い求めていた精神的で、不確かな美の正体を、ミュシャの描く女性たちに見ていました。明治時代からミュシャの形式だけでなく、美感をも受け継いだのです。
しかし展示作品の多くは1970年代、80年代。令和となった今、ミュシャは古き良きクリシェではないのか、なんて意地悪な意見も出てくるのではないでしょうか。
そこで現代だからこそ、個人的に推したいミュシャが描いた人物像、特に女性の美感があります。
それは、身体のリアリズム。
幼い頃から観察眼を養い、素描で人々の個性を描いてきたミュシャ。
よく見てみると、彼が描く女性の体つきはとても現実的です。肉つきの良い二の腕や太もも。親近感さえ湧きます。
現代のファッションシーンでは、かつての長身痩せ型のほか、プラスサイズモデルが徐々に登場し始め、某ファストファッションのショッピングサイトでは同じ服を何人もの異なるプロポーションのモデルが着こなしています。等身大の自分を好意的に受け入れて、さらなる美を目指す世の中へと徐々に動き出しているのです。
まだまだ推定BMI指数18.5以下の主人公が多いアニメやマンガの世界。ミュシャの現実味溢れる女性への美感によって、少しでも日本人の美感を変えられないか。
はたまた、まだまだBMI指数にこだわる私個人の煩悩を打ち砕いてくれまいかと、画面の前で思わず願ってしまうのです。
ライター:小林有希
【展覧会概要】
展覧会名:みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ ―― 線の魔術
開催期間:2019/7/13(土)-9/29(日) (*7/30(火)、9/10(火)のみ休館)
開館時間:10:00-18:00(入館は17:30まで)
毎週金・土曜日は21:00まで(入館は20:30まで)
入館料:一般 1,600円 大学・高校生 1,000円 中学・小学生 700円(すべて税込)
会場:Bunkamura ザ・ミュージアム(東京都渋谷区道玄坂2-24-1)
展覧会URL:http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_belgium/
施設URL:http://www.bunkamura.co.jp/